都合の良いものばかり表に出すな(真実を書くように)「U」

 76年頃に私は長野県の軽井沢にある日本大学軽井沢寮に行っていた時にある人物と知り合うことが出来た、其の時は「大変失礼な、ただの親父」でした。
 雨が降っている日に自転車で寮まで帰っていたら大学の寮の入り口の道路で、車が溝に落っこちていた「大丈夫かなと」思いながら通ろうとすると、窓を開け「おい、若いの」と声を掛けられた、私は「はい、」と言って自転車を止め車に近づくと、白髪頭の叔父さんが「車が溝に落ちた、上げろ」と言われ、思わず「はい」と言ってしまい、自転車を端に止め車を上げようとするが一人では上がらないので「叔父さん車から降りて一緒に上げて下さい」と言うと、「馬鹿モン、俺がそんな力が有るわけ無いだろう、誰か呼んで来い」です、少しカチンときたが年寄りだし良いかと思い、寮まで人を呼びに行き5名位来てもらい、雨の中皆で車を上げた、上がったら「手を上げ、おう」とそのまま行ってしまった、皆が唖然としブツブツ言いながら寮に帰り風呂に入り休んだ。

 次の日スーツ姿の紳士が寮を尋ねて来られ、昨日の車の事で私を探しに来られたと聞き、昼ごはんの時に、隣のゴルフ場に来て下さいとの伝言を受け、尋ねて行くと、ゴルフ場の偉い人らしき方が出て来られクラブハウスの中へ通された、昨日の雨の中での事を「有難う」とお礼を言われ、困って「あの、昨日の叔父さんでしたか」と聞くと、「私ではありません、内の常務理事です」と言われ「今日は居ませんが、明日帰って来ますから、先ずはお礼まで」と思いまして、と言われその日は帰り又次の日に、ゴルフ場を尋ねると二日前の大柄な叔父さんが迎えてくれた、いきなり「飯食うか」と言われ「はい」と言って後ろをついて行った。

 食事をしながら名刺を出された、名刺には「白洲次郎」と書いてあった、確かステーキをご馳走になりました。次の日もその次の日もご馳走になりました。

 明日東京に帰りますと言うと、そうか帰るかと言われ「何をしてる」と聞かれ「横綱輪島関の運転手兼マネージャー」ですと言うと「そうか、分かった」と言って別かれました、「有難う御座いました」と心を込めて言わして貰いました。

 それから何ヶ月かして「同じ高知県から上京した相撲界の荒瀬関」の所に私を尋ねて来ている人がいると言われ、言われた所の電話番号に電話すると一週間後に銀座の会社を尋ねてくれと言われまして、銀座に行くと何やら胡散臭い物がところ狭しと置いてあった、何やら骨董を扱っている店でありました。

 そこに行って少し待っていると外車に乗ったキザナ親父が降りてきた、よく見ると「軽井沢の親父さん」でした、直ぐ近づき「こんにちわ、その節はご馳走になりまして有難う御座います」と言うと「いいから、座れ」と、言われ座ると、彼が「二っちゃん」で彼が「秀ちゃん」でそんなことは良い、「彼が、前に言っていた」「渡(わたる)」だ、そうだな、私は「はい、そうです」と言い、それからは私の名前は「わたる」でした、ここに居るのは皆家族だ、気楽にしたまえ、と言われ、「はい」と答え、じっとしていると、何やら「骨董が何だとか、訳の分からない」事を、延々と喋っていた、私は「帰ります」と言い外に出ると、白洲さんが「これ持っていけ、と言ってお金をくれた」えー、と言う間に、もう店の中に入って行った。「有難う御座います」と頭を下げ帰った。

少しして「花籠部屋」に呼び出しの電話があり銀座にお伺いした、度々電話を貰いお伺いした。皆で食事をしようと、言われ、荒瀬関、横綱輪島関と私で総勢11名の食事会でした、帰る時に明日銀座に来るように言われ「はい」と言いお伺いした。
ある時白洲さんから「わたる」は土佐の出身だってな、と聞かれた、「はい」と言うと、昔な、内の家の会社「白洲商店」と「土佐商会」という土佐藩から出た会社と付き合いがあった。
 俺の「ジイサン、吉田茂」も土佐出身だしな、何か縁があるな、家は何をしている、「お寺」です、何処のお寺だ「田舎の土佐市宇佐というところです」と言うと、ほう、「何か有名なものは無いのか」と聞かれた、何も無いですと言い、話終えると。「何かあるだろう」え、しいて言えば親父の話で「・・・の実の子供がいる」位ですかね。
 何「・・・の子孫」何処にだ、私のお寺で「お預かりして内の子供として育ったと聞いています」お前面白いな?今でも・・・を名乗り親戚付き合いしています。
 「よーし分かった」「その話気に入った」、「今度会わせろ」いいな、私は「分かりました」と言い何年か忘れていましたら、80年頃の秋に突然「高知に行くから待ってろ」と言われ高知に帰ったら、

城西館に居るから「例のお連れしろ」と言われ、・・・の実家に行くと、母親は息子の所に行っていた(息子は12年前に交通事故に遭いとある病院に下半身麻痺の為)入院しているとご報告したら、「病院に行こう」といわれ三人で行った。見舞金10万円出され相手は困惑していた。
 車の中で「わしと同じ位でかいの」ベットでしたが180cmは超えています。「家系は皆でかいのか」といわれ、私の知っている人間は皆大きいですと言うと、「似ているな」、写真とか、・・・に。と言うと。そのまま二人は京都にお帰りになりました。
 夏にゴルフをやるから来いと言われ、軽井沢の大学の寮で泊まりゴルフをさせて頂きました。
 食事をしながら「お前が○を持ったらここのメンバーにしてやる、{おいこいつがここのメンバーにしろと来たら、無条件でメンバーにしてやれ分かったな」と言って下さいました。
 「そういう豪快な人です」

 ここに本当の白洲次郎を述べたいと思います、皆さん余りにも綺麗過ぎる、私が知っている「白洲次郎」は何時も芸者さんを連れているし、企業から「お金を貰っていた、いつも財布には誰かが「お金」を入れて帰って行った。
 私には「俺は会社のゆすり屋だ」と言っていた、企業からものを頼まれ役所に行き、「おい、何処そこの会社面倒みてやれ」と言って金を貰う、「一種のゆすり屋」次郎だ。
 日本で今役所を「はい、分かりました」と言わせる人間は、三人いると一人は俺、もう一人は右翼の岡村吾一であと一人は同和の尾崎清光だ、と話をされた。
 それから俺が何故(学歴も無いのに高校中退で、{親父が英国にて英語を学んでいたから俺も英国に行き英語を学んだ、当時コネで・ケンブリッジ大学にて聴講生として入った・世間は大学を出たとか言っているが高校中退が大学卒業できるか、只英語だけは負けなかったがな、この時代は英語が喋れたら大変な時代だけどな、米語ではダメ、アメリカ人に馬鹿にされるからな)それから「俺は若い時から不良でな、このまま日本に居たら博徒になっていた」親父が「イギリスに行けと言うから行った」(当時金はあったから好きな事が出来た)と言われた、とこれが本当の「白洲次郎」だと言いたい。

 何年か前に大学院のゼミが軽井沢であり皆で食事をしたいからと軽井沢ゴルフ倶楽部を尋ねると支配人らしき方が出て来られ「丁重にお断りされた」ので、私は「わたる」ですと言って帰って来ました、を持ったから「メンバーにして下さい」と其の内、行こうと思います。

 白洲さんは「俺は間違っても日本人だし、日本人のこうあるべき姿を」今まで貫いてきただけだ。
 「只の嫌われ者だ」と言われた、俺が死んでも決して「俺を美化するな」とも言っていた、間違ってもそんな事は無いけどなと、笑って言っていました。